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Pelle erobreren ペレ

デンマーク・スウェーデン映画 (1987)

原作の『Pelle Erobreren(征服者ペレ)』(1906-10)の第1部「少年時代」を映画した作品。そして、カンヌのパルム・ドールとアカデミー外国映画賞を受けた名作。この映画は1987年の制作だが、1986年には原作者ネクセ(Martin Andersen Nexø)の移住先の東ドイツで同名(ただしドイツ語)のTV映画が作られている。両者の差はあまりにも大きい。どうしてデンマーク版が偉大な作品となり、東ドイツ版がそうはならなかったのか。それは、公開作とTV映画の違いではなく、制作費の違いでもなく、原作の解釈の問題だった。話が逸れるが、2001年に始まった『ロード・オブ・ザ・リング』と『ハリー・ポッター』シリーズの関係と よく似ている。私は、両方の映画とも大好きで、原作も読んでいる。『ロード・オブ・ザ・リング』があれほど高く評価されたのは、長大な原作を大幅に改編しながら、1つの叙事詩として完成させたから。『ハリー・ポッター』が人気は高かったにもかかわらず賞レースでは後塵を帰したのは、原作の映像化に徹したからである。しかも、上映時間の関係で、エピソードの多くがカットされている。これと全く同じことが『ペレ』の2本の作品でも見られる。デンマーク版では、ペレの悲惨な境遇を強調し、さらに原作にないメンターを登場させることで、希望の世界への脱出に強いテーマ性を与えている。しかし、東ドイツ版の方は、原作の映像化に終始し、多くのエピソードが抜けている。原作は、4部構成で、その全体でペレの「征服者」への到達を語っていて、その中で第1部は、どちらかというと少年時代の色々な体験のモザイク的集積で、メッセージ性はあまりない。だから、それをそのまま映画化しても、デンマーク版のような心を揺さぶられる感動は生まない。ここでは、デンマーク版が、原作のどこをどう変えることで名作になったのか、という観点から分析したい。

→ 対比 : 東ドイツ版のペレ

映画は、スウェーデン南端部の農村で育ったラッセが、妻を亡くした後、身上をつぶし、骨を埋める気で、幼い息子を連れてデンマークの離島にやって来たところから始まる。船中で父は、これから向かう理想の地について語るが(創作)、いざ着いてみると老人と子供など見向きもされず(1・変更大)、最後に送れて到着したストン農場の管理人に安値で引き取られる(1・変更大)。農場に到着し(1・変更大)、父はひどい住環境に愕然とする(1・変更大)。ペレは、牛の放牧をしたことがないので初日はとまどうばかりだが(4)、途中から私生児のRudが助けてくれる(4・変更大)。牛小屋では、字の読めない父が、牛を入れる場所を間違え助手に叱られる(3に基づく創作)、また、馬係のエリックが管理人に怠惰な行為で叱られる(エリックに係わる創作1)。ある日、ペレがこっそり猫にミルクをやっていると、助手に見つかってしまう(創作)。そして、ペレを馬車置き場に連れて行き(3・変更大)、ペレの下半身を露出させて笑い者にする(3)。それを見たエリックは怒って助手襲いかかるが(エリックに係わる創作2)、父は見ていても何もできない(創作)。夜になり、ペレの前で父は威勢よく復讐を誓うが(最初は3・変更大、のち3)、実際に助手が現れると、結局何もできない(3)。当然、ペレは落胆する(3)。ペレを慰めようと、父は、故郷から持ってきた野いちごを見せる(創作)。裕福な漁師オーレと息子のニルスが、農場に大量のニシンを運んでくる(14)。そこで、ニルスと農場の下働きアナとの最初の出会いがある(ニルスとアナに係わる創作1)。一方、ペレは農場の女主人のお酒をこっそり買いに行くが、それが主人に見つかり、没収される。女主人は怒って逆上するが、ペレは主人からお駄賃としてお釣をもらう(2)。ペレは、誕生日に、父からナイフをプレゼントされる(18)。その日、ペレは、海草を採りに行かされるが(創作)、そこで、同行したエリックからアメリカに連れて行ってもらう約束を取り付ける(エリックに係わる創作3)。さらに、その夜は、父から野いちごの誕生日デザートまでもらえる(創作)、素晴らしい1日だった。次に、ニルスとアナの教会前での出会いと、それを知ったニルスの父の激怒シーンが挿入される(ニルスとアナに係わる創作2)。農場主が馬車で町に浮気に出かけるシーンもある(4)。晩秋になり、ペレは学校に通うことになる。父は学校に連れて行く間にペレに色々と注意する(10の1年前倒し)。そして、学校での最初の授業風景(10)。その夜、ペレは、父に字を教えようとするが、父には無理だった(10)。クリスマス・イヴになり、父はペレをきれいに洗う(3を変形した創作)。しかし、イヴの食事は、予想とは異なり最低だった(7)。憤るエリック(エリックに係わる創作4)と、我慢するだけの父(創作)。少し日が経ち、ニルスとアナの真夜中の密会シーンが挿入される(ニルスとアナに係わる創作3)。学校からの帰り、岬に凍死者を乗せた船が着き、漁民の子でないペレが物珍しげに近付いたため反発を買う(11・変更大)。ペレは、漁民の子には負けまいと海に飛び込んで、溺れかけてしまい(11・変更大)、医者にかかる(創作)。回復したペレは、女主人から呼ばれ、館でいろいろな話を聞かされる(12・変更大)。春になると、女主人は、将来の跡継ぎにと本土から姪を連れてくる(16)。一方、学校では、先生を小ばかにするような発言をしたペレが手を叩かれる(17の2年前倒し)。いよいよ春本番。種蒔きが行われ、父はカルナにふられる(創作)。悔しくて、その場を去った父とペレは 小川のほとりで話し合う(創作)。夏になり、鶏小屋に卵を盗みに入ったペレが、偶然、妊娠したアナと会う(ニルスとアナに係わる創作4)。ペレが管理人に尻をぶたれてる隙に、アナが逃げる(創作)。ペレが池で痛むお尻を冷やしていると(創作)、Rudがやってきて、ペレが見ている半クローネ銀貨欲しさに100叩きを申し出る(9)。ペレは、イラクサの束でRufの裸の背中を何度も何度も叩き続ける(9)。学校の期末試験が行われ、ペレが偶然答えた「動く耳」が試験官をびっくりさせる(11)。ここで、アナの沼地での出産と、殺された新生児の発見、アナの逮捕の3つの連続したシーンが挿入される(ニルスとアナに係わる創作5)。しばらく後になり、牧草地に設けられた赤ちゃんのケルンの石を、ニルスが盗もうとしたことから、ペレが怒り、ニルスは赤ちゃん殺しを告白する(5の転用)。場面は、暴風で座礁した船を、危険を承知で救助に向かうニルスへと転換する(17)。救助半ばで難破船が波で砕かれ、ニルスは死ぬ(17)。そのニルスの死体を必死で見つけ出した父は、学校の教室に運び込み、後悔とともに最後の別れを告げる(17)。話は変わり、農場でエリックが賭けをしている(13の変形)。そして、休日は働かないと、風邪の振りをする(13)。それを管理人に咎められ、殴られ(13)、腹いせにみんなを連れて野外で大騒ぎをする(13・変更大)。秋の刈込み作業中、エリックと管理人の軋轢は最高度に達する(最初は14のち創作)。管理人の最後通牒に絶望感を抱いたエリックは、捨て鉢となって管理人を襲う(14・変更大)。しかし、偶然からエリックはひどい怪我をして廃人になってしまう(14・変更大)。ここで、場面は新局面を迎え、ペレは、帰宅途中に、夫が行方不明のオルセン夫人と遭う(15)。父は、将来の結婚を視野に、妻の遺品を贈り(15)、それに満足した夫人は、ペレに「夫の死を夢で見た」と話す(15)。それを受けて、父は夜に夫人の家を訪問、一夜を過ごす(15)。バラ色の未来を期待して牛小屋に戻った父。その後の、父とペレの聖書論議(20)。ここで、映画は、農場主と姪の関係を断片的に紹介する。裏庭での楽しそうな2人(農場主と姪に係わる創作1・2)。そして、夏至祭の朝の2人の接吻(農場主と姪に係わる創作3)。夏至祭では、父とオルセン夫人、ペレとRudの仲の良さが映される(18・変更大)。そして、夏至祭の夜には、処女を失った姪とそれを盗み見るRudの母の姿もある(農場主と姪に係わる創作4)。姪は、いきなり帰り支度を始め、女主人はびっくりする(最初は19のち創作)。そして、姪が旅立ちの荷物を積んだ馬車に乗ろうとした時、Rudの母がやってきて、農場主と姪の情事を告発する(19・変更大)。それを聞き、姪の急な出立の理由を知り、かつ、農場の継承者を失った女主人の怒りは大きかった。夫人は夫を自ら去勢する(19・変更大)。一方、学校では、父とオルセン夫人の関係が公となり、ペレは生徒達から笑い者にされる(最初は20のち創作)。父の前で怒りに震えるペレ(最初は20のち創作)。生徒の行動は過激化し、学校からの帰りに待ち伏せ合ったペレは、融け始めた海氷に追い詰められてしまう(22を元に大幅な創作)。その時、オルセン夫人の夫の船乗りが突然帰還する(22)。ペレからその話を聞かされた父は、老後の夢が破れて激しく落胆する(22)。ペレは、虐めを恐れて学校に行くのをやめる(22)。父は酒に憂さを晴らす(22)。馬小屋に住む廃人エリックに、ペレがアメリカへ早く行きたいと一方的な話す短いシーンも入る(エリックに係わる創作5)。父は自分の態度に反省し、ペレは学校に復帰する(22)。ところが、その日、教師は教壇で静かな死を迎える(22)。教会の墓地での埋葬の日、ペレは、父を侮辱した牧師の子を何度も殴る(最初は22のち創作)。父は、ペレの話に怒るが、ペレが告発されるかもしれないと不安になり(22)、女主人の元に嘆願に行く(23)。幸い、話は聞いてもらえ、おまけに、助手への昇格まで持ち出される(創作)。仕立屋による制服の仮縫い(最初は23のち創作)の最中、エリックが農場から連れ出されてしまい(エリックに係わる創作6)、アメリカへの夢が断たれたペレは、これ以上農場に留まることが嫌になる。そして、助手になるのを辞退する(創作)。そして、その夜、父とペレは密かに逃亡の支度を始める(24)。父は、老齢と、カルナへの淡い期待から同行を止め(創作)、ペレ1人が雪原に向かって逃避行に出る(最初は24のち創作)。

原作との対比で、①順番の逆転が結構多いこと、②原作に基づいていても改変が多いこと、③映画だけの創作のかなりの箇所に上ることが分かる。創作の中でも、ニルスとアナに係わる創作は、原作にあるペレとは直接関係しない昔話を、上手にペレと結びつけたもので、映画にダイナミックさ(難破船の救助)と、身分違いの厳しさ(赤ん坊殺し)を付加するのに成功している。農場主と姪に係わる創作は原作での唐突さを失くし、女主人の復讐を1つの山場に昇格することに成功している。エリックに係わる創作は、原作の小さな脇役エリックに全く別の意味を持たせて準主役に仕立てたもので、ペレの逃避行の動機付けに必要不可欠である。これ以外の創作の多くは、ペレの境遇をより悲惨で虐待的なものに変えるのに使われている。このことにより、映画の最後でのペレの逃避行は、エリックに植えつけられた新たな世界への夢と、自らの虐げられた境遇からの必死の脱出の2つの意味が科せられ、非常に力強いものとなった。

ペレ・ヴェネゴー(Pelle Hvenegaard)は、原作に因んでペレと名付けられただけあって、まさにペレを演じるに最適の少年だ。特に、映画版の、より厳しい環境に置かれたペレを、如何にもそれらしく演じている。子役の演技に対する賞を2つ獲得したが、子役として映画に登場するのはこの1作だけである。


あらすじ

東ドイツ版のあらすじでは、原作との類似を示すため、原作と同じ部分を青字で示したが、このデンマークあらすじでは、原作との違いを強調するため、原作にない部分を、茶色で示す。また、参考として、原作にあって映画にない部分青字で示す。船が港に着く前、ペレが父に、これから向かう島について確認する部分は、すべて映画の創作である。内容は2つに分かれる。父が「この新天地は、前いた所とは全く違う。ローストポークは周りをレーズンで覆うんだ。そして、パンにはバターを塗る、少なくとも厚さ1センチだ」と食べ物のことを言う箇所と、父が「デンマークの賃金は信じられんくらい高いから、子供は、仕事しなくたっていい」と言ったのに対し、「子供は遊んでられる。1日中、遊んでていいんだよね」とペレが確認する部分だ。この会話があることで、彼らが農場に雇われてからの「落差」が強調される。このうち、後者は、原作の1章に、ペレが港に着いてから、「ここは、遊ぶのに格好の地のはずだった。しかし、そこには子供は誰一人いなかった。ペレは、子供たちは家で遊んでいるのだろうと考えた」という文章を、より発展的に変えたものであろう。港について父が職探しをする場面は、映画では何度も何度も声をかけて断られるが(1枚目の写真)、原作では、10年前に父がこの島に3ヶ月だけ働きに来て100クローネを稼いだ話と 〔換算は非常に難しい。現在の110~275万円という推定もあるが、1875年1月にデンマークに導入された金本位制では金1キロが2480クローネに決められたとある。2017.1.27の金相場は1キロ473万円なので、100クローネ=19万円となる。あまりに違いすぎて、何が正しいか分からない。夏至祭の出店でジンジャーブレッドが1個1オーレという場面が映画の後半にある。乱暴だが、これを推定基準とすれば、1オーレ≒100円、100クローネ≒100万円となる〕、ペレの心細い心象の描写が多く、何度も何度も断られるという印象はない。映画で、何度も断られるのは厳しい状況を強調するのに効果がある。仕事など簡単に見つかると高を括っていた父が心配になってきた表情〔もちろんペレも不安〕(2枚目の写真)は、この映画の出だしとして、とても印象的だ。埠頭に誰もいなくなってから、1台だけ馬車が来る。それまでいた馬車は2頭立てで、農場の管理人と助手の2人が乗っていたが、最後の馬車は1頭立てで御者は管理人だけ(3枚目の写真)。如何にも残された行き先は「カス」のように見えるが、原作ではストン農場は島でも最大規模とある。このミス・ディレッションは面白い。管理人はごく短い言葉をかけるだけでペレを雇う。東ドイツ版にあった長々とした原作通りの会話は一切ない。ただ、原作で、父が管理人に「3食ともニシンとジャガイモのスープじゃ困りますよ」と言ったのに対し、管理人が冗談で「ブドウの入ったロースト・ポークを食べさせてやるか」と返す言葉は、冒頭の船中での父とペレの会話に活かされている。
  
  
  

2人が到着したストン農場(1枚目の写真)のぬかるんだ中庭のお粗末さは東ドイツ版と同じだが、こちらの方が、農場主の館は若干立派。原作には詳しい描写はない。原作と東ドイツ版では、着いた時刻が食事の鐘が鳴らされた時で、2人は「老人と子供」ということで使用人から哄笑の対象となる。それはそれで寂しいが、デンマーク版のように、全く無視されていて誰も出てこない(2枚目の写真)方が、ペレの心細さを強調する意味では効果的だ。そして2人が案内された寝場所。牛飼いなので、牛小屋の中という点は同じだが、そして、藁の上に寝るという点でも同じだが、鶏に占領されているだけ「ひどさ」が際立つ(3枚目の写真)。ペレが期待した「別天地」が、無残に砕け散った一瞬だ。
  
  
  

ペレの初めての放牧。5月2日なので、映画くらいの明るさなら、ボーンホルム島では朝の4時頃であろう。「遊べる」はずが、着いた翌日から叩き起こされ、一度もやったことのない牛の放牧地への移動を命じられる。この部分の最初は原作の4章と同じ。映画の中での順番も東ドイツ版と同じ。ただ、1枚目の写真では、牛は、背後に見える農場から伸びる道を、ペレに追われて一旦はここまで来たのだが、急に道から逸れて、畑の中を逆方向に歩いている。如何に、牛を扱うのが難しいかが、視覚的によく分かる。ここでRudが突然助けに現れる。農場主コンストロップと極貧の女性の間の私生児だ。身分違いのため、相手にもされない。この子の名前は、カタカナでは標記不可能なので、そのまま原語で表示する〔強いて書けばウズ〕。Rudは、畑の中を走り回って牛を追い、上手に道に戻す。そして、ペレと一緒に道に沿って牧草地へと追ってくれる(2枚目の写真)。放牧地に着いて、ペレはRudに、「もし、牛のことで助けてくれて、デンマーク語で どう命じるか教えてくれたら、食事を半分やるよ」と提案する(3枚目の写真)。原作では最初のRud出会いは3章。放牧の前だ。その時は、名前を言うだけ。しかし、4章の放牧では、ある程度ペレが慣れてから、Rudが手伝ってくれる、ともあると書いてある。そして、パンとの交換は、さらにその後、パイプを吸わせてもらうためだ。原作では、Rudの役割が錯綜しているが、デンマーク版のように、颯爽と現れてさっと助けてくれる方が印象的だ。因みに、原作でもデンマーク版でも、Rudのあだ名は「キャベつ頭」。
  
  
  

次は、牛小屋で、父が助手に、牛を入れるブースが間違っていると叱られる場面(1枚目の写真)。写真では、中央の通路の両側に白い柱が並んでいて、その柱の間にそれぞれ牛が入っている。そして、その柱の顔の高さの所には、四角の灰色の板が付いている。各板には、そのブースに入る牛の名前が書かれているのだが、字の読めない親子にとっては何の意味もない。助手が、1枚の板を指し、ここには「Aspasia」だと言っても、そもそもアルファベットが分からないので、話にならない。この場面は原作にはない。しかし、後で、ペレが助手に辱めを受けても、常に「牛の名が読めない」ことが問題として立ち塞がる。映画の早い段階で、「読めなくて如何に困っているか」を強調しておくことは、非常に効果的だ。次の場面で、馬車で農場主が帰ってくる。馬係りのエリックは主人が降りる時に馬を押さえているが、昼食の時間となったので、馬をその場に放置して食事の席に着く。そこに管理人が現れ、「エリック、なぜ引き具を外してやらん」と叱る。「まず食ってからだ」。「何だと? 俺は、引き具を外してこいと言ったんだ。さっさと行かんか、この怠け者」(2枚目の写真)。管理人を睨みながら出て行くエリック。このエリックのシーンは全くの創作。そもそも、エリックは、中盤の13章と14章だけに登場する「ならず者」的な存在。映画のエリックも反抗的だが、常に登場しては、①ペレに、広い世界へ飛翔しろと教えるメンターとなり、②管理人の独裁的な支配へ反抗心を使用人たちに植え付ける。①は、ペレが最終的に農場を離れる決断に大きな影響を与えるし、②は、ペレが大人になってコペンハーゲンに言ってから、労働運動の指導者になっていくことへの伏線になっている。原作での端役を、映画の最重要の登場人物の1人にしたことが、原作と映画の最も大きな違いであり、映画の成功の鍵でもある。
  
  

ペレが朝、こっそり牛乳を搾り、猫に与えていると、助手に見つかってしまう(1枚目の写真)。このシーンは原作にはない。「ミルクを盗んだ罰は知ってるか?」。助手はペレを掴んで、「鞭打ちだぞ」と言って地面に突き倒す(2枚目の写真)。原作では、ペレが回転式の大きな犬小屋の屋根に乗って遊んでいるのを咎められる。東ドイツ版には登場するが、それよりは、猫にこっそりミルクをやる方がぴったりする。ところで、助手は「今回は黙っててやる」と言い、ペレを虐めてやろうと、「なあ、ペレ、俺はお前が気に入ってる。だから、秘密を教えてやろう。金貨の隠し場所を教えてやってもいい、お前が秘密を守るならな」と思わせぶりに話しかける(3枚目の写真)。この部分も原作にはない。ただ、ここだけは失敗だと思う。貧しい助手が、もっと貧しいペレに金貨の話などするのは、あまりに突飛過ぎる。助手に呼ばれれば、何でもしなければならないので、このような口実は不要だ。東ドイツ版でも助手は問答無用で、口実などは使わない。
  
  
  

助手が、馬車置き場の扉を開けて(1枚目の写真)、ペレと一緒に入りながら、「一言も口をきくな。声を出すとカラスに襲われるぞ」と言って、扉を閉める。急に真っ暗になり、助手もいなくなる。ペレは、心配になって、声を出すなと言われていたのに、「助手さん!」と何度も呼ぶ。いきなり3人の男がペレを取り囲み、1人が口をふさぎ、2人がズボンを下げる。ペレは恐怖のあまり何が何だか分からない。突然扉が開き、眩しい太陽の光がペレの顔を刺す。気が付くと、ズボンが下げられ、2人の男が扉の所で笑っている。そして、後から助手が鞭でペレを叩き、痛さでそのまま屈んで前にジャンプする。そして、また一発(2枚目の写真)。こうして、何度も叩かれ、ペレは扉から出ていく。すると、外にはもっと多くの人がいて、笑っている。恥ずかしくても、鞭で叩かれ、前に進む他はない(3枚目の写真)。ペレは、水溜りの中に這いつくばるような形で倒れ(4枚目の写真)、痛さと恥ずかしさで泣き始める。「撥ねろ、スウェーデン人め、飛ぶんだ!」。それを見た父は、凍りついたように身動きできない。すぐに動いたのはエリックだった。「この腐った若造が!」と怒鳴って、助手めがけて突進し(5枚目の写真)、鞭を奪って、「思い知るがいい」と助手を叩く。管理人が割って入り、ようやく、父が鎌を手に助手に向かって行く。管理人は、助手を庇って逃がしてやる。全体の状況は、原作に忠実だ。しかし、おかしな部分もいくつかある。最大の疑問は、なぜペレを襲った男を3人にしたのか? ペレが猫にミルクをやったのは偶然で、それからの一連の流れの中で、助手はどうやって他の2人を見つけ、真っ暗な中でペレのズボンを下げる指令を出せたのか? 原作通り1人の方が自然だ。2つ目は、「スウェーデン人め」という言葉。助手が言ったようには聞こえなかった。助手を手伝った2人も、その態度から、そう言ったとしても不思議はない〔デンマーク人ということになる〕。原作では、ストン農場の使用人は全員スウェーデン人とある。そうでなければ、他の農場と違って、ケチで厳しいこんな農場で働いていないからだ。この2点は、脚本の失敗だと思う。原作と違う他の2点、①エリックの救助はストーリー上必須だし、②見ていないはずの父が見ていて何もできなかったことも、効果的でよく出来ている。
  
  
  
  
  

痛々しい姿のペレを、カルマが抱いて牛小屋まで連れて行ってくれる(1枚目の写真)。これは、原作も東ドイツ版も同じ。ただ、原作と違い、父が目の前にいるなら、なぜ父が自分で運ばないのか? ペレと2人だけになると、父は、「あんなことをしやがって、思い知らせてやる。お前も気が済むだろう。名誉にかけて、やってやる」と怒りをぶちまける(1枚目の写真)。「殺すの?」。「豚野郎は殺す」。「ほんとに?」。「二言はない」。「どうやって?」。「何が?」。この後の会話は原作通りで東ドイツ版とも同じ。「あいつをどうやって殺すの、父さん?」。「ハンマーだろうな」。「ほんとに? 犬みたいに殺すの?」。「ああ、必ずな」。「そしたら、誰が名前を読むの?」〔Aspasiaのシーンが加えられているので、分かりやすい〕。ここから先も原作通りだが、東ドイツ版ではカット。「そうだったな。お前の言う通りだ。鞭打ちだけにしよう。それなら、奴に読ませられる。忘れられんような一発を食らわせてやる」。約束だとばかりに手を握り合うペレと父。この場面は、台詞が1.5倍に増え、父の怒りが強調される。だから、その後、実際に助手と対面して、何もできなかった時のペレの落胆も大きくなる。
  
  

翌日の早朝、助手が「ラッセ」と呼ぶ声が聞こえる。憎い助手が平然とやって来て、父を呼んでいるのだ。返事がないので、「スウェーデンの山出しはどこだ?」と侮蔑的に呼ぶ。ペレは、父に「今、やるつもり、父さん?」と訊く。父は板扉を開けて出て行くと、「助手さん、わしは抗議したい… あんたさんが息子にしたことに」と言うが、助手は、「俺の知ったことか。お前は、返事すりゃいいんだ。さもないと管理人に言いつけるぞ。分かったか」と問答無用。「悪かったです。でも、ペレにあんなことを…」。「お前、つんぼか? 管理人に言いつけるぞ」(1枚目の写真)。そして、「エスペイシアは明日は牧草地には行かん」と注意。「子牛を産むんで?」。「もちろんだ。子馬を産むとでも思ったのか?」。この辺り、順番は若干入れ替わるが、ほぼ原作通り。これだけ言うと、助手は出て行ってしまい、父は何もできなかった。ベッドに臥せって泣くペレ(2枚目の写真)。写真ではよく見えないが、ペレの服に3ヶ所ある小さな黒い点はハエ。父は、「そこで泣いてろ。だがな、エスペイシアの名前が読めんから、礼儀を払わんとな」と開き直る。ペレは、「エスペイシアの場所なら知ってる。扉から3つ目だ」と悔しそうに叫び、「約束したじゃないか!」と枕を叩く。父は、「わしはお前の父さんだ。敬意を払って、駄々をこねるのはやめろ。わしは、年老いて哀れ。みんなにバカにされる。好きなようにされても、息切れがして、何もできん。年取るとはそういうことだ。しかし、お前は若いんだ、ペレ… お前は世界を支配することだってできる」。最後の部分が、原作より、ペレを鼓舞する形になっている。原作では、これでペレは諦めて寝るが、映画では泣き止まない。父が故郷のトメリヤから新聞紙に包んで持ってきた野いちごの苗を取り出して、ようやく泣き止む。2人は、明るくなってから、農場の外の草むらの中に、苗を植える(3枚目の写真)。野いちごの件は、一切原作にない。
  
  
  

島の裕福な漁師のオーレとニルスの親子が馬車でニシンを運んでくる〔原作では7章〕。2人は、服装からして漁師という感じではなく、船主というイメージだ。荷台に一杯のニシンをペレとエリックがスコップで籠にすくって入れている(1枚目の写真)。そして、井戸のそばでは、カルナとアナがニシンさばいて塩漬けにしている。彼らが毎日食べるニシンはこうして運ばれ、処理されているのだ(2枚目の写真)。井戸には、井戸桶の反対側に、カウンターウェイトとして巨大な石がくくりつけられている(矢印)。この石が、後でエリックの頭部に当たり、彼を廃人にする。写真には井戸の所にニルスも映っている。父のオーレから、水を汲んでくるよう頼まれたためだ。彼が井戸を上手く扱えないのを見たアナが助けに行く(3枚目の写真)。アナは、身分違いだが、ニルスに気がある。この設定は、原作にはない。原作の5章に、ペレが島に来る数年前に、町に住む若い裕福な漁師が、若い娘に赤ちゃんを産ませ、不倫関係がみつからないよう赤ちゃんをすぐに水死させるという事件があった、という記載がある。そして、第1部の一番最後から6行目に、ようやくそれがニルスだと書いてある。また、原作のストン農園にもアナはいる。しかし、彼女は不倫相手ではない。映画では、この2人の悲運の恋を、ペレのすぐそばで見せることで、ペレの物語に大きな動きを与えている。すなわち、赤ちゃんの死、赤ちゃん殺しで逮捕されるアナ、ペレの前で本当は自分が殺したと告白するニルス、そして、後悔したニルスが見せる難破船の救出場面〔映画で一番盛り上がるシーン〕、最後に、死んだニルスをペレの教室に持ち込む父オーレ。原作にはバラバラに存在する重要なテーマが、ニルスの不倫相手をアナにすることにより、一体化された。因みに、これらのシーンは、東ドイツ版ではペレに無関係な挿話として一切入っていない。
  
  
  

ペレが、農場の不幸な女主人のためにコニャックを買いに行って見つかるシーンは、原作では2章と初めの方にあるが、映画の勢いを削ぐためか、東ドイツ版同様、少し後に回されている。東ドイツ版では、中庭の泥地を裸足で抜けたペレが、館の階段の所で木靴を履くが、デンマーク版では、原作通り木靴で来て、部屋の前で裸足になる。部屋におずおずと入ってたペレが、胸を押さえているので、主人のコンストロップは、「スモックの下に隠しているものを見せるんだ」と命じる。「奥様が、誰にも見せるなと」。「いい子だな、おいで」。恐る恐る近付いて行くペレに、主人は、「私から奥様に渡そう。それなら、誰も見ないだろ?」。ペレは包みを渡す(1枚目の写真)。東ドイツ版と違い紙に包んである。村で買って来たので、包んである方がもっともらしい。主人が中味を見たところに女主人フルーが現れる。ここまでは、原作通りだが、ここから先の展開は全く異なる。フルーは、夫に、「私のよ」と手を差し出す。しかし、渡してもらえないとみると、ペレが入って来たドアに両手を拡げて塞ぎ立ち、「渡すまで、ここから動かないからね」と夫に迫る。入婿で、浮気ばかりしている夫に愛想をつかしたのだ。主人は悠々と立ち上がると、鉢植えの木に高価なコニャックを流し込む。「このろくでなしのコンストロップ!」。そう叫ぶと、フルーは夫のところに駆け寄り、コニャックを奪おうとする。「私のビンを寄こしなさい、この悪魔!」。そして、ペレに対し、「みんなに言っておくれ、こいつが如何に意地悪で、私の生活を壊しているか」と叫ぶ(2枚目の写真、矢印の先は空になったボトル)。主人は、「全部嘘だ」と夫人を突き飛ばす。ペレは、困ってしまい、早く出て行こうと、お釣のコインを恐る恐る主人に差し出す。主人は、「持ってなさい」とにこやかに言って、ペレを部屋から送り出す(3枚目の写真、矢印の先に半クローネ銀貨≒5000円)。後半の女主人の反撃は意表をつくが〔あってもなくてもいい〕、ペレが半クローネ銀貨をもらう場面は、後のRudの100叩きのシーンに結び付くので重要だ〔原作では別の方法で半クローネを手に入れるが、この方が明快〕。
  
  
  

6月26日の誕生日にペレがナイフをもらうエピソード。東ドイツ版にはない。原作では18章〔3度目の冬を迎えた後の6月〕なのでペレの12歳の誕生日だが、映画では5月1日に島に来てから最初の誕生日なので、まだ9歳だ〔原作では、8歳で島に来るが、デンマーク版のペレは最初から11歳くらいに見える。それだと、この日12歳になる〕。父が、朝、眠っているペレの頬にキスし、揺り起こす。そして、「服を着ろ」と言う。面白いのは、ペレはシャツは着ているが、パンツは履いていない(2枚目の写真)。スモックをはおろうとして、「ズボンが先だろ」と言われる。そして、ズボンをはくと、待ちきれないように、「そのポケットは何だ? 何か入っとるぞ。昨夜 卵を盗んだんじゃなかろうな? 割れてなかったら驚きだ」とおどけて言う。ペレがポケットの中から紙の束を引き出す。紙は何重にも巻いてある。「えらく沢山の紙だな。そんな詰め物、ポケットに入れるな」。紙を全部外すと、そこには油紙で包んだ小さなものが(3枚目の写真)。ペレが紐を外すと、中にはナイフが入っていた。誇らしげに笑った父が、「それは、お前の誕生日にだ。神の祝福を」と言う。「ありがとう」と言って、父に抱きつくペレ。ほぼ原作通り。
  
  
  

次は、原作に全くないシーン。エリックが登場し、重要な話をペレにする。ペレとエリックが海草を馬車にすくって載せている(1枚目の写真)。かなりの重労働で、先回のニシンといい、今回の海草といい、ペレは原作にないほど こき使われている。ところで、なぜ海草を獲っているかは分からない。デンマークでは当時海草を食べる習慣はないし、農場のシーンにも登場しない。デンマークでもLæsø島だけは海草を使って屋根を葺くが、ボーンホルム島ではそのような事実は見つからなかった。さて、長い会話なので要点のみ紹介しよう。ペレが、「みんな、あなたがアメリカに逃げるって言ってるよ」と話しかけると、エリックは、「何だと? 逃げる? 俺がバカだと思ってるのか? これまで節約して貯めてきたのを犠牲にして、お尋ね者になるとでも? 違う、自由になりたいだけだ。自由な人間。それこそ、俺の夢だ」。そして、帰りの馬車の中で、エリックはペレに小さな新聞の切れ端を見せる。そこには帆船の小さな絵が書いてあり、その下に「Til Amerika(アメリカへ)」と大きく書いてある。「このクソ農場との契約は あと2年だけだ。そしたら、その金で切符を買える。大海に乗り出して、世界を征服してやるんだ」。エリックが熱く語る夢にペレも陶酔させられる。そして、「僕も連れてって」と言い出す。エリックは、握手してそれを受け入れ(2枚目の写真)、「覚えておけ、2年後、雪が融け始めたら、アメリカに出発だ。俺とお前は、征服者になるんだ。この大きくて豊かで素晴らしい世界の」と述べる。これで、エリックはペレのメンターとなる。その日の夕方、父が先日植えた野イチゴの実を摘んでいる。そして、夜、こっそり乳を絞ると、ペレの前に野イチゴとミルクの椀を置く。ペレは両手で目を隠している(3枚目の写真、矢印の先が野イチゴ)。これは、父の用意した誕生日祝いの心尽くのご馳走だ。ここで、ペレは、「アメリカって遠いの?」と訊く。「ああ、遠いぞ。大海の向こうだ」。「エリックは、まずアメリカへ渡るんだって」。ペレは、もうすっかりその気だ。この部分も、もちろん原作にはない。
  
  
  

次も、原作に全くないシーン。日曜日、親しくなったニルスとアナが、教会の前でこっそり会っている(1枚目の写真)。仲睦まじく見つめ合う2人(1枚目の写真)。アナは一張羅を着ている。しかし、そこに、教会からニルスの父が出てくる。そして、2人の姿を見つけると、つかつかと寄って来て、息子の頬を激しく叩く。アナは、泣きながら逃げていく。その次が、夜になって農場主コンストロップが馬車で町まで浮気に出向くシーン(2枚目の写真)。これは原作で、亭主が町まで何度も女漁りに行くとあるのを象徴的に描いたもの。夫が出て行った後、女主人が悔しそうにそれを見ている(3枚目の写真)。東ドイツ版では、女主人が後を追って別な馬車で追いかけるが、ここでは、原作通りに直接行動は取らず、ただ、夜になり、泣き声を農場中に響かせるだけだ。その狂気のような声が、農場を耐え難いものにしている。
  
  
  

10月、ペレが学校に通うことになる。原作では2年目の冬からだが、映画では最初の冬からだ。それには賛成。1年目に学校に行けない理由が原作に書いてなく、それなら1年目から学校に行くのは、字の読めないペレにとって必要不可欠だからだ。ペレと一緒に学校に向かいながら、父が言い聞かせる言葉は、ほぼ原作通り(10章)。「石板は大事に使うんだぞ、割っちゃいかん。大きい子には近寄るな。お前が相手できるようになるまで。だが、もし向こうがそっとしておいてくれなかったら、先にかましてやれ。たいていの奴は、それで放っておいてくれる。特に、思い切りかませばな。1発やられたら2発返せ。それから、先生の言うことは良く聞かにゃいかん。誰かに誘われても、授業中、遊んだりふざけたりするな。そうそう、ハンカチを使え、指で鼻をかむな。恥ずかしいことだ。だが、誰も見てなかったら、もちろん、ハンカチを無駄にするな。最後に、上着は大事にしろ。それと、もし先生の奥さんにお茶に呼ばれても、ケーキは1つしか取るな」(1枚目の写真)。指で鼻をかむ部分の注意が面白い。この部分、東ドイツ版ではすべてカットされ、いきなり授業シーンになる。やはり、あった方がずっといい〔念のため、青字は原作のみ〕。最初の授業内容は原作に書かれていない。映画では、アルファベットと発音の練習を行う。例えば「BとAでバ」というように。その最中に生徒が勝手に騒ぎ出す。生徒の中にRudがいるが、原作では学校には行かない。先生が騒ぎを鎮め、新入生ペレの紹介をする。耳を引っ張って立たせ、名前を言わせ、次いで、「得意なことは何だ?」と訊く。原作では、「ラッセ父さんの助けを借りなくても、怒った牛を水場まで引っ張って行けます」と答えるが、映画では、「石を投げるだけで、牛を従わせられます。スズメバチのように唸って、牛を静かにできます。太陽で時間が分かります」と答える。「そうか、そうか、だが、字は読めるのか?」。「読めるんだったら、ここに来てません」。「横柄な皮肉は、最初だから許してやる」〔2回目からは、棒で手のひらを叩かれる〕。ペレは農場に帰ると、柱や壁のあちこちに字を書く。父が「F」の字を見て、「この字だが、お前が何と言ったか忘れちまった。何だったっけ?」と訊く。「父さん、もう忘れたの? 僕はいっぺんで覚えた。Fだよ」。文盲の老人には無理もない。これは、原作(10章)で、父が「M」の字に迷うのと同じ設定だ。MがなぜFになったのかは分からない。
  
  
  

クリスマス・イヴ。きれいな体で ごちそうを食べさせようと、父がペレをたらいのように大きな木桶の中で、洗っている(1枚目の写真)。原作では、3章に、毎日曜、体をバケツ1杯の水で拭くという記述はあるが、桶に湯をはって入るようなことはない。父は、ペレの体を擦りながら、「多分、ロースト・ポークだぞ、ペレ。レーズン付きの奴だ」と期待を込めて語る。映画の最初で、ペレにデンマークの食事の豪華さについて話したにもかかわらず、今まで塩漬けニシン以外のものを食べさせてもらったことがないからだ。ペレも、「リンゴかもね。レーズンの代わりにリンゴも使うこともあるんだ」と相槌を打つ。この場面は映画のみ。原作では、7章に、ペレの牛飼い仲間の話として、イヴから1月7日の間はお休みで、特にイヴの夜には、ローストされた肉、ジンジャー・ナッツやケーキ、甘い飲み物、それにゲームで楽しくわいわい過すと書いてある。だから、期待は高まったのであろう。しかし、いつもの地下食堂に入って行くと、置いてあったのは、いつもと同じニシンだけ。外からは、エリックと管理人の口論が聞こえてくる。「クリスマス・イヴなのに、またニシンじゃないか!」。「食い物が嫌なら、どこか他へ行くんだな! お前がいなくなれば清々する!」。「なんでいつもニシンなんだ。クリスマスぐらい、ロースト・ポークが出せんのか?」。「文句ばっかり言いやがって。そんなにここが嫌なら、スウェーデンに帰れ!」。「こんなにケチる権利がどこにある? 俺達をこき使っておいて、なぜ満足に食わせない?」(2枚目の写真)。管理人はエリックを馬車置き場に行かせ、食堂に戻ってくると、「他に文句のある奴は?」と強い調子で訊く。ペレの期待する顔を見て、父は何か言いたそうに管理人の方を見るが、勇気が出なくて、うつむいてしまう(3枚目の写真)。こうしたイヴの描写は、原作と大きく違っている。映画では、管理人が極悪人のような印象を受ける。そして、この変更は、ペレの置かれた環境をより厳しいものに変えるという意味で効果的である。
  
  
  

真冬の明け方、まだ暗い中で、ペレが、ニルスとアナがこっそり密会するのを見るシーン。初めに述べたように、2人の関係は映画の独創で原作には全くない。ここで不思議なのは、ペレが馬動力の装置らしきものを扱っている点。映画の中で、馬が、棒を押して回転しているように一瞬見える。1枚目の写真には、回転棒と馬をつなぐ鎖(矢印)が写っている。昔、この映画を見た時、ペレが何をしているのか全く分からなかった。しかし、東ドイツ版には馬動力の脱穀機のシーンがたっぷり出てくるので(→写真)、これがそれらしきことは分かる。しかし、馬動力の回転装置は、原作によれば農場に隣接しているはずで、映画のように離れた場所にあるはずはない。近くに脱穀機を入れた小屋がないと無意味だから。2枚目の写真は、白い馬に乗ってきたニルスと、農場から出て来たアナが会う場面。右端に映っているのは、アナが身重になってから、ペレと偶然出会う鶏小屋。
  
  

次は、原作の11章のエピソード。東ドイツ版にも良く似た形で入っている。ある寒い冬の日、1隻の小船が1人の凍死者と4人の凍えた病人を乗せて、氷で覆われた港に着岸する。デンマーク版では、港というよりは自然の岬に近い(1枚目の写真)。ペレが他の5人の学校友達のところに寄って行くと、「誰が来ていいと言った?」「女々しい奴は引っ込んでろ」「臆病なスウェーデン野郎」などと罵られる。原作では、5人は漁師の子で、彼らには、「農家の子は 海で死んだ男の慟哭を共有することは許されない」というしきたりがあり、だからペレは近付くのを許されない。それを、映画では、ペレに対する個人攻撃に変えてしまっている。これは、ペレの孤独を強調するには役立つが、正当な行為をしている漁師の子達を悪者に仕立ててしまう。それでも、ペレは後を追う。岬の先端に向かうところで、「帰れペレ、滑って凍った海に落ちちまうぞ」と言って、石を投げられる(2枚目の写真)。この台詞は文字通り正しいが〔如何にも滑りそうなので〕、その後の、「腰抜けは来るな」「母ちゃんとこに帰れ」と言うのは原作と外れている〔原作では、「山出しは、出て行け」「他の田夫と一緒にいろよ」と、相手が農民だということを問題にしている〕。ペレは、「腰抜けじゃないのを証明できるか?」と言われ、「ああ、今から飛び込んでやる!」と叫び(3枚目の写真)、先端に向かって つまづきながら走り始める。
  
  
  

ペレはそのまま無言で走り、岬の先端から氷の海に飛び込む(1枚目の写真、矢印)。東ドイツ版の海には氷のかけらもないが(→写真)、デンマーク版は凍えそうな海。どうやって撮影したのだろうか? さて、そもそも海に入ったことのないペレは泳げない。しかも、水温は0℃に近い。そのまま水に沈んで浮かび上がってこないのを見たクラスメイトが、飛び込んで気絶状態のペレを岸まで泳いで連れて行く(2枚目の写真)。原作では、「家まで走れ!」と言われる。「全力で走るんだ。でないと病気になっちまうぞ!」と言われるが、映画ではペレは気絶状態。どうやって農場まで運ばれたか不明だが、画面は牛小屋に変わり、医者が診察している。父はバカなことをしたペレに小言を並べる(3枚目の写真)。原作では、ペレは自分で農場まで走って行き、父が「風邪を引いた馬の治し方を知っているので、ペレをベッドに寝かせ、裸にして藁で擦った」と書かれている。もちろん、医者など呼ばない。ここは、軟弱なペレや、役立たずの父よりは、原作通りの方がよかったのではないか?
  
  
  

ペレの風邪を受けて、女主人フルーがペレを館に呼び、コニャックを飲ませてやる。原作では、12章。原作では呼ばれる理由が不明。映画の方がすっきりしている。呼ばれた理由が分かっているので、ペレは平然としているが、原作では、なぜ呼ばれたか分からないので、不安で一杯。それに、部屋に入って行くとフルーが泣いているので、あせって鼻水が出てくる〔映画では、風邪で鼻水が出てくる〕。その鼻水を、フルーが上等のハンカチで拭いてくれるのは、両方とも同じ。原作では、会話は①イントロ、②ペレの母、③呪い、④フルーのぐち、⑤ペレはいい子、に分かれている。①では、フルーが「こちらへおいで。私のことが怖いのかい?」と呼びかけ、それに対してペレは、「怖がっていないところを見せようとした。実際、彼女は噂のように魔女なんかではなく、不幸で泣いているだけの人だった」とある。これを、映画では、「怖がるんじゃないよ。私は魔女じゃない。とっても寂しいだけ」と、フルーの台詞にしている。自分で、「魔女」と言うのは、違和感を覚える。②では、「お母さんを亡くしたんだろ。可哀想に?」と言った後、「すごく寂しいかい?」の問いに、ペレは「ええ、でも、父さんが服を繕ってくれます」とトンチンカンな返事をする。「あまり面倒を見てもらえなかったんだね?」。「ええ、母さんは病気で気難しくて、あんなことになって良かったのかもしれません」と答える。映画でも ほぼ同じ。③は、ペレが、父は再婚を考えていると言ったのを受けて、「それなら、ここから出て行くんだね?」と訊かれ、ペレは言質を取られないよう軽く頷く。フルーは、「いいや、お前は 居心地が悪いんだ。ストン農場じゃ誰だってそうさ。誰も彼も不幸になるんだよ」と嘆き、ペレが「呪われてるんです」と言う。ここも、台詞は半分だが、ほぼ似ている。大きく違うのは④で、「みんながそう言ってるのかい? そうだろうね。それに、私のことを悪魔だと思ってる。私が1人の男~踏みつけにされても黙っているような男~を愛してるから」とだけ言う。しかし、映画では、「みんながそう言ってるのかい? 他には何て言ってる?」。「あなたが悪魔と契約し、夜に人狼になるんだって」。「私が、ロクデナシに心を捧げたツケなんだ。あいつの淫乱に、私がどれほど苦しめられていることか。今この瞬間も町で遊んでいる。何でこんな目に遭うんだい。結婚して農場主にしてやった。愛してもやった。最高のものをやったのに、赤ちゃんができないというだけで」(1枚目の写真)。人狼は言い過ぎだし、ペレのような子供にこんな内輪話を言うだろうか? ただ、この台詞がなければ、フルーとコンストロップの関係が分からないことも確かだ。⑤は原作通り。「お前はいい子だね。もし子供がいたら、お前みたいになって欲しかった」(2枚目の写真)。最高の賛辞だ。
  
  

フルーが姪と一緒に馬車で農場に到着する(1枚目の写真)。原作通りだ。フルーとしては、跡継ぎがいないので、姪に将来農場を継いで欲しいと思っている。そこで、単なる短期滞在者だったらしないこと、すなわち、全使用人に会わせている。牛小屋にもやって来て、ペレと父に会う(2枚目の写真)。右端はフルー。原作の16章では、到着は2度目の冬の後の3月中旬だが、映画では、1年早まっている。映画では、姪が入って来る前、父は牛の囲いの中でズボンを下げて用を足していた。姪に握手を求められて慌てて手を上着で拭うが、あまり清潔とは言えない。臭いの方は、牛舎全体が牛の糞尿にまみれているので、気づかれないだろうが。
  
  

次に、学校でのシーンが挿入される。原作では17章にあたる(本来は、2度目どころか3度目の冬)。教室内は騒がしく、教師は教壇で新聞を読んでいる。教師が、騒いでいるピーターに、「何事だ?」と訊くと、近くにいた生徒が、「2×2が 何だったか忘れちゃった、と言ってます」と答える。教師は、「2×2は5だ」とワザと間違える。映画では、教師は教壇に足を上げて寝ている。そして、一番ボス的な生徒が、先生を起こそうと、「2×2が 何だったか忘れました」と質問する(1枚目の写真)。それに対し、教師は「わしの錆付いた知識でも、助けてやれるだろう」と言って、「2×2は5だ」と答える。若干の違いはあるが、この後の展開はもっと違う。原作では、今度は、ニールンという生徒が、「1ポンドの羽と鉛、どっちが軽いか 分かりません」と訊く。教師は悪童のいたずらには慣れているので、この質問は無視する。しかし、ペレが「1ポンドの小麦粉が12オーレなら、半クオーター(1ポンドの4分の1)の石炭は幾ら?」と直接質問すると〔「分かりません」が抜けている〕、教師の堪忍袋が切れて、ペレの両方の手のひらを杖で叩く。映画では、2番目の質問からペレがする。質問内容は「1ポンドの羽と鉛、どっちが軽いか?」と「分かりません」が抜けている。生意気な態度に、他の生徒から、「やめとけ、ペレ」の声がかかる。教師は、「ペレ、もう一度くり返してもらえるかな?」と不気味に丁寧に訊き、ペレは、「1ポンドの小麦粉が12オーレなら、1バレルの火薬は幾ら?」と挑戦的に内容を変える。罰せられ方は同じ(2枚目の写真)。変更の理由や効果は不明。
  
  

種蒔き。この部分に対応する原作は見つけられなかった。画面は、まず、農場の前の畑で、全員が出て、一斉に種を蒔くところから始まる(1枚目の写真)。作業が終わり、昼食の時間となる。出されたのはパン。エリックが、「こりゃなんだ? ニシンはどこにある? 俺はニシンしか食わん」と嫌味を言って、みなを笑わせる。管理人は聞いていて面白いはずはない。一方、ペレの方は、カルナにキスを迫られている(2枚目の写真)。それが終ると、反対側に座っているおばさんにも。ペレは、嫌がってアナのところに逃げていき、口をぬぐう。父のラッセは、カルナのそばに来ると、「名案だと思うんだが、カルナ、わしとあんたのことだ。あんたはペレを好いとる。子供に優しい。3人で一緒に暮らそう。きっと幸せになるぞ」と声をかける(3枚目の写真)。この「求婚」に対し、カルナは、「あんたは年寄り過ぎてるよ、ラッセ。あたしゃ危険な感じが好きなんだ。あんたは、そうじゃない」ときっぱり断る。ラッセは、「若いのを釣るんか。乗り遅れちまうぞ」と捨て台詞を言って離れる。その後、別の男に酒を買ってきてくれと頼まれると、「年寄りだと思いやがって」と怒って1人で去って行く。原作では、父とカルナの仲はゆっくり進行し、第2部では一緒に暮らすので、このカルナの言葉には違和感を覚える。
  
  
  

心配して父を追っていったペレと父の会話。この部分も原作にはない。「スウェーデンを離れた時は、小金を貯めて小さな家を買えれば、と思っていた。わしらの面倒を見てくれる女性が見つかるかと。日曜の朝にベッドでコーヒーだぞ」(1枚目の写真)。原作では、ラッセのコーヒーの夢は15章で発せられるが、ここでは、かなり早目に使われる。これに対し、ペレは、「逃げたらどう? どこか遠くへさ」と訊く。父は、「逃げる? 役人がいるからな。無法者にはなりたくない」と否定する。「そうじゃない。アメリカに行くんだ」(2枚目の写真)「航海するんだ。海を渡って。遠すぎて、誰も追ってこない」。「じゃあ、逃げるか」と父は言うが、もちろん本気ではない。因みに、原作でペレがアメリカについて言及するのは1ヶ所だけ。8章で、半クローネ銀貨を他の方法で手に入れた後、その使い道を考えていて、突然、「じゃあ、アメリカに行って、金を掘ろうよ」と言い出す場面のみ。この点、映画では全面にアメリカが押し出されていて、決定的な違いとなっている。
  
  

次も原作にないシーン。ペレが早朝、牛追いの途中で鶏小屋に寄り、卵を盗もうとする。すると、そこには、お腹の大きなアナが隠れていた。「何しに来たの?」。「卵を盗りに。お腹空いたから」(1枚目の写真)。「あたしを、ここで見たこと、誰にも言わないでよ」。「僕、誰が父さんか知ってるよ」。うつむいて泣くアナ(2枚目の写真)。「誰にも言わないと誓って。あの人の父さんが知ったら、一体どうなるか… あたしはスウェーデンの移民労働者だし… だから、誰にも内緒よ。あたしは、時が来るまで、ここに隠れてる。分かった?」。ペレが鶏小屋から出た時、馬車で近くまで来た管理人に見つかってしまう。管理人はペレを呼びつけ、「鶏小屋で何しとった?」と訊く。「卵、盗りました」。「かがめ」。そして、何度も平手でお尻を叩く(3枚目の写真)。しかし、管理人が叩くのに集中していたお陰で、アナは無事小屋から逃げ出すことができた。ニルスの恋人をアナにすることで、映画独自のシーンが生まれた。なお、原作では、ペレは卵も盗まないし、管理人にお尻を叩かれることもない。
  
  
  

お尻をひどくぶたれたペレが、池に入って火照るお尻を冷やしている(1枚目の写真)。この場面は、原作にはない。ペレが水に浸りながら、両手で持って見ているものは、随分前にもらった半クローネ銀貨。ここからは、原作の9章の有名なRudの100叩き。ペレが池に入っている時、Rudがやって来て、ペレが何を見ているか、池の周りをうろつきながら興味深いげに探る。そして、何だか分かると、「その半クローネ くれないか?」と声をかける。「僕のクローネを? 頭がおかしいんじゃないか? アメリカに行くのに要るんだ」。「大人になったら、10クローネ払う」。「お前は大人になれない。ドワーフだからな」。「サーカスかチボリで人気者になる。怪物だぞ。いっぱい稼げる」。ペレが全くのってこないので、Rudは作戦を変え、「じゃあ、これならどうだ。俺をイラクサで100回叩かせてやる」。「裸でか?」。「そうだ」。ペレはイラクサを採りに茂みまで走って行き、できるだけ沢山集めると〔映画では、少な目〕、戻って来てRudの背中を叩き始める(2枚目の写真)。13回まできたところで、Rudは「やめろ」と言い、「金はやらないぞ」と言われると、「強すぎる」と文句を言う。「要らないんだな」。「先に寄こせよ」。それからペレは全力で叩き始めるが、原作のように46回も叩いたようには見えない。ペレが走って去って行くと、Rudはペレがしていたように池に入り、火照った背中を水で冷やす(3枚目の写真)。ほぼ原作通りの展開だ。東ドイツ版では叩かれるのはお尻だが、原作では場所は特定されていない。ただ、最後に体を冷やすのは池ではなく、泥の中。
  
  
  

次は、学校の期末試験。原作の11章のエピソード(2度目の冬の終わり)だ。試験といっても筆記ではなく、生徒が1人ずつ教壇に呼ばれ、牧師が主任試験官となり、他に、教師と教育委員が2人、それに、生意気そうな牧師の息子がそれを見ている。最初に呼ばれたRudはアダムとイブについて訊かれるが一言も答えられない。原作では前に述べたように、Rudは学校にはいないので、代わりにペレが答える。「リンゴを盗んだ話は、何とか切り抜けられた」と書かれている。しかし、リンゴを食べろと唆した蛇について、「神は蛇に何と言われた?」と質問され、ペレは、「おまえは、一生、腹ばいで歩き」までは言えたが、その次の「ちりを食べなければならない」がどうしても出てこない。牧師は「今でも、蛇はそうしてるかな?」と優しく訊く。「ええ、四肢がありませんから」。「四肢とは何か、説明できるかね?」。「例えば… 手です」。「四肢を、体の他の部分とはっきり区別できる点は何かな?」。ペレが返答に詰まったので、「四肢は、独立して動かせるだろ。他に例は?」。「耳です」(1枚目の写真)。「君は 耳を動かせるのかね?」。「はい」。この後、原作では、「Rudに負けまいと、去年の夏中に必死で練習したかいがあった」とある。一緒に試験に参加している生徒や父兄、それに牧師や教育委員も、ペレの耳が動くところを見ようと固唾を呑んで見つめるところが面白い。ペレはこの問答で、宗教で「優」をもらったと原作にある。このシーンは、台詞のほとんどが原作通り。
  
  

次は、ニルスとアナの話なので、直接は原作にはない。しかし、多くの場面は、5章の「赤ちゃんを殺した若い漁師」の記載内容から取られている。「何年か前、ある夜、一人の娘〔名前は、リトル・アナ〕が砂丘で赤ん坊を産んだ。彼女はどうしていいか分からなかったので、川の淀みで溺れさせた。善良な人々が、その場所が忘れ去られないよう、ケルンを立てた。そして、赤ん坊が死んだ夜になると、毎年火の玉が飛ぶと噂された。ペレは、赤ん坊がケルンの下に埋められていると信じ、周りをモミの枝で覆ったが、決してその近くの川で遊ぼうとはしなかった。その娘は、本土に送られ、長期の懲役を宣告された。娘は父親の名前を明かさなかったが、みんな、それが誰か知っていた。彼は、若い裕福な町の漁師だった。そして、娘は極貧で、結婚するなど問題外の存在だった」。映画では、この漁師をニルスに、娘をアナとすることで、土地の伝説から、ペレに結びついた話に変えた〔アナとリトル・アナは別人物〕。1枚目の写真は、出産の場面。2枚目の写真は、水死した赤ん坊が見つかる場面。3枚目の写真は、ストン農場で逮捕されるアナ。逮捕の決め手は、死んだ赤ん坊のそばで発見されたアナのスカーフ。
  
  
  

ペレが牛のそばで寝転んでいると、ケルンの石をニルスがポケットに入れている(1枚目の写真)。ペレとしては許しがたい行為なので、早速駈けて行き、「何すんだよ!」と怒鳴る。「石を動かしちゃダメだ。そこには赤ちゃんが埋まってる」。無言で首を振るニルス。「アナは、ここであんたの子を殺したんだ。だから監獄に入れられた」(2枚目の写真)。ニルスは、「やったのは、僕だ。僕が、殺したんだ」と泣きながら打ち明ける。「あんたが殺した? ラッセ父さんは、僕に そんなことしなかった」。男は、「なぜ、僕を一人にしておいてくれない?」と言うが、ペレは、「ここは僕の牧草地だ。それに、勝手に赤ちゃんの石を盗るな!」と怒鳴る。ニルスは、「それは嘘だ。子供は教会の墓地に埋葬した」と反論するが、ペレは、「赤ちゃんはここだ。夜になると火の玉が出てくる。てことは、天国に行けてないからだ」。ニルスはそれを聞くと、自責のあまり、拳で自分の頭を何度も殴り、逃げ出してしまう。この場面は、若い漁師がニルスになっているだけで、台詞のほとんどは原作通り(5章)。非常に巧く融合されている。
  
  

そして、この後悔を受けて、映画『ペレ』最大の見せ場へと移行する。原作17章の「難破船」のシーンだ。5章から17章に一気に飛んでいるが、この方が、ストーリーがスムースに連続する。なぜ、ニルスが自殺的な救助活動に出たのか、それは赤ん坊への贖罪からだ。浜辺から50mほどの所で岩礁に乗り上げた船に、乗組員が10名弱取り残されている。しかし、波が荒くて誰も助けようとしない。それを見ていたニルスは(1枚目の写真)、小さなボートで荒海に漕ぎ出し、何とか船に上がると、マストに救助用のロープを結びつける。これによって、岸に設置された台との間で、浮き輪のゴンドラを行き来させて、乗り組み員を救助するのだ。波しぶきを浴びながら、乗り組み員が1人ずつ岸に向かって運ばれる(2枚目の写真)。その場に、ニルスの父オーレも現れるが、無謀な救助に向かったのが自分の息子だと聞かされ、心配そうに見守る。ペレも見ている。5人救助した時、マストが折れてしまい、その煽りで船上の人影は消えてしまった。オーレやペレの顔が絶望的になる(3枚目の写真)。原作ではペレと関係の薄かったエピソードだが、つながりの見事さで、クライマックスとなった。
  
  
  

そして、この一連のエピソードの最後は、ニルスの水死体を見つけた父オーレが、ペレの学校まで運び、嘆き悲しむ場面。生徒たちが賛美歌を歌っていると、ニルスを肩にかついだオーレが教室に入ってくる。そして、死体を教壇の上に置き、汚れた顔を水できれいにしてやる(1枚目の写真)。それを見守るペレたち(2枚目の写真)。ここでオーレが息子に語りかける言葉は感動的だ。「いい息子だった。私のすべてだった。光明であり情熱だった。私に、一度もひどい口をきいたことがなかった。一度たりとも。私が、息子の愛を許さなかった時ですら」。ここで、オーレが息子に最後の口付けをする。「これで、心に平安を見出せただろう。自分を犠牲にして、5人の命を救った。今では、天も息子を迎えてくれるだろう」。台詞が2倍以上に増えている。
  
  

話はがらりと変わり、休日の農場の地下の食堂で、エリックが指先1本で、銃を持ち上げられるかの賭けに挑戦している(1枚目の写真)。賭けているのは、酒1本。この部分は、原作13章の、ニシン20匹を平らげる賭けの変型だ。代わりにペレが、それを見ながらニシンにかぶりついている(2枚目の写真)。エリックは、そのまま中庭に出ると、門を開けて町に遊びに行こうとするが、目ざとい管理人に見つかり、制止される。仕方なく、馬車置き場に戻ったエリックは、管理人がやってくるのに備え、ベッドに横になり、仮病の振りをする。「風邪をひいたらしい。頭がくらくらする」。管理人が毛布をはぎ取ると、エリックは外出着のまま(3枚目の写真)。管理人は、「それは、死に装束なんだろうな? 墓に入りたいのか。その方がいい、死臭がするからな」と皮肉る。エリックは、「俺は まだ死んじゃいない。それに誰かさんほど臭わんぞ」と挑発。管理人は一発殴り、顔をベッドに押さえつけ、「お前は、怠けることしか考えない、文句言いの厄介者だ」と罵り、「お役人に報告してやってもいいんだぞ」と警告する。後半も、ほぼ原作を踏襲している。
  
  
  

恐らく その日の夕方、農場から少し離れた場所で焚き火が燃え立ち、エリックがアコーディオンを弾き、使用人たちが踊っている。それを隠れてペレも見ている(1・2枚目の写真)。結構遠く離れているように思えるのだが、バカ騒ぎに腹を立てた管理人は、助手を行かせ、うるさいから静かにしろと注意させる。しかし、若造が「管理人が…」と言っても、迫力はまるでなく、逆に追い返される。これで、管理人のエリックに対する印象がますます悪くなってしまう。このシーンは原作の13章にある。ペレのメンターとしてではなく、反逆的なエリックの場面は、ほとんど原作と対応している。ただ、原作では、エリックが助手を侮辱するのは一回だけ。
  
  

次の連続した2つのシーンも、映画の中で大きな山場となる。しかし、描き方は原作と映画では全く異なる。原作は東ドイツ版に極めて近く、休日に仕事を強要されたエリックが、管理人にナイフを向けて挑み、管理人が隙を見て逆襲。当たり所が悪くて、エリックが痴呆状態になるというものだ。デンマーク版では、その前段として、平日の大規模な刈入れシーンを見せる。四季を通じて撮影しただけあり、壮大な刈入れの光景だ(1枚目の写真)。作業が一段落すると休憩の時間。しかし、管理人はエリックが休もうとすると、「どこに行く?」と訊く。「休憩だ」。「何て言った?」。「休憩だ」。「ダメだ。お前は休ません。仕事に戻れ」。「休む権利はある」。「あるだと? 誰が言った?」。「みんな休んでる」。「決めるのは俺だ。だから、お前は仕事に戻れ」。「ずっと働いてるじゃないか」。「そりゃあ、勘違いだろう、お利口なエリックさんよ。俺がいない所で陰口も叩いてくれてるしな」。そして、「誰のお陰で 金をもらえると思ってる?! 給料もらうには、働かにゃならんことも分からんくらいバカなのか?! これが最後だ。仕事に戻れ、この鼻持ちならんくそ野郎が!」と怒鳴る。それを聞いて、他の使用人も集まってくる(2枚目の写真)。これでもやり過ぎなのに、管理人は遂に一線を越える。「何なら、お役人に引き渡そうか。一銭ももらえなくなるぞ」。アメリカに行く夢のために今まで耐えてきたエリックは、この言葉で自制心を失う。そして、管理人が農場に戻る後を、刈入れ用の大鎌を構えたまま、追っていく。他の作業員もそれに続く。一種の反乱、一揆だ。エリックは、大鎌を手に、中庭にいる管理人の前に立ちはだかる(3枚目の写真)。この危機的な場面は、原作にはない。管理人も、原作よりかなり専制的で意地悪に描かれている。
  
  
  

原作のナイフと違い大鎌なので、エリックの方が圧倒的に有利だ。エリックの振るった大鎌で、一度は管理人も負傷する。しかし、管理人のそばにいた馬が暴れ、弾みで井戸のバケツが外れ、カウンターウェイトの巨大な石が真っ直ぐエリックの後頭部を直撃する(1枚目の写真)。衝撃的なにぶいドンという音。その力は余りに大きく、エリックは脳震盪を起こして気絶する。大好きなエリックを心配そうに見るペレ(2枚目の写真)。自分のせいで死んだらクビになるかも知れないので、管理人は「こいつを地下室に運べ」と事故隠しを謀る。エリックを心配した使用人が一斉に駆け寄る(3枚目の写真)。これでエリックは死なないが、生きた屍となってしまった。この部分は、原作14章の拡大版。特に井戸の巨石を使った仕掛けが衝撃的、かつ、効果的だ。
  
  
  

ようやくオルセン夫人の登場。この部分は、原作の15章をそのまま踏襲している。風の強い日の帰校途中、ペレは風を避けるため、1軒だけポツンと建っている家のポーチに立っている(1枚目の写真)。それを見つけた一人暮らしの中年女性がペレを家に招き入れ、熱いコーヒーを出してくれる。映画は、会話の途中、「母さんは、トメリヤの教会墓地に眠っています」から始まる。「じゃあ、お父さんは男やもめなのね?」。ペレの年齢からして、父親は35-40歳くらいに違いないと踏んだ夫人は、芽があると期待する。「あたしの夫は、荒海に出てって、1年戻らないの〔原作では「何年も」になっている〕。だから、未亡人みたいなものね」。「溺れたの?」(2枚目の写真)。「分からないの、お告げがないから」。農場に戻って、その話を父にするペレ。「1年も1人で暮らしてるんだな?」。「そう言ってた」。「長い時間だ… とてもな。母さんが死んだことも話したんだな?」。これで父は決意する。カルナには袖にされたので、これが最後の機会かもしれない。だから、贈り物作戦で行こうと。父は、妻の最後の遺品となるきれいな布を長持ちから取り出すと、なごり深げにしげしげと眺める(3枚目の写真)。そして、「一か八かだ」と言い、明日の帰校時に夫人に渡すよう、ペレに頼む。
  
  
  

次の日、贈り物を渡された夫人は、すぐに意図を見抜き、「昨夜、お告げがあったの。夢の中で、大きな黒い犬がベッドの脇にいたわ。びしょ濡れよ。知らせを持って来てくれたの。そこで、ベッドから起き上がって窓の外を見ると、船が沈没するところだった。海と空が1つになり、夫は天に召されたわ。体は完全に透明で、海水が滴り落ちてた」(1・2枚目の写真)。帰宅したペレからその吉報を聞いた父は、一張羅を着込み、夜遅く、オルセン夫人の家を訪ねる。鉄は熱いうちに打て、だ。父を家に入れた夫人の最初の言葉は、「あなたが、ペレのお父さん?」だった。思ったより遙かに老人なのでがっかりしたのだ。「息子さんは、すごく小さいのね」「でも、まあ座って」。「あの子は、遅生まれなんだ。でも、わしは、男の仕事なら 人一倍できますぞ」と背伸びをして見せる。夫人も、これで良しとし、酒やパンを出して歓待する。会話の最後は、「日曜の朝にベッドでコーヒー」と父が希望を延べ(3枚目の写真)、それを受け入れた夫人はキスをする。東ドイツ版はここで終わるが、デンマーク版では原作通り、夫人とベッドを共にする。
  
  
  

早朝、夫人の家から帰ってきた父。入口で寝ていたペレを抱き上げ、「うまくいったぞ。家と世話してくれる女性ができた。オルセンさんだ。嬉しいだろ? 日曜の朝は、ベッドでコーヒーだぞ」と話しかける(1枚目の写真)。ほぼ原作通り。この後、場面は20章に飛んで、牛小屋の中で、ペレが つかえながら聖書を読み上げ、父は、記憶が薄れて4人の預言者の名前(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル)すら思い出せず、ペレに教えてもらう。この場面は2分30秒も続き、筋とは何の関係もなく、前後の結び付きもない。何のために存在するのだろう? 一番不可解なシーンだ。
  
  

姪と農場主のコンストロップの不倫関係については、原作では何も述べられていない。しかし、デンマーク版では、幾つかに分けて具体的に映像化されているので、とても分かりやすい。まず最初が、馴れ初め。1枚目の写真。そこは、農場の裏庭~表の泥濘の中庭とは全く違った別天地だ。そこで、姪は熟した赤すぐりの実を採っては、口に運んでいる。そして、偶然コンストロップの姿を認め、にっこりと微笑む。2枚目の写真は、随分と高い竹馬に乗った姪を、コンストロップが支えながら歩かせている。彼は姪の裸足にもわざと触り、じゃれ合っているようにも見える。原作の19章には、ごく簡単に「フルーは、内心ではどう思ったにせよ、若い親類を怪しむ素振りは見せなかった」と書いてある。この竹馬の場面でも、姪が楽しんでいるのを純粋に喜んでいるだけだ。「フルーは、彼女を、自分の娘のように可愛がった」。ところが、3枚目となると全く雰囲気が異なる。これは、島中の農家が集まる夏至祭への2人の出発シーン。先の赤すぐりの実がなるのは6-7月なので、夏至祭まで1ヶ月を切っている。2人の仲が急速に進んだのか、馬屋での額へのキス・シーンは、かなりの親密さを示している。この章の中に、「その日の朝、2人が祭で出かけるにあたり、女主人が少し悲しそうな顔をした」という記述が見られる。これが原作中唯一の、2人の不倫を示す「サイン」である。なお、同じくこの夏至祭の長い記述の中で、全本文中2回だけ、「リトル・アナ」という言葉が使われ、それが赤ん坊を殺した娘の名前だと分かる。ストン農場のアナ(20歳を超えている)と混同しやすくて、分かりにくい、このように、原作では、一人の娘や若い漁師の名前が、関係のない所で突然ポロリと書かれ、非常に推敲に欠けている。なお、夏至祭(6月23日)の長い文章が、ペレの誕生日(6月26日)より後に書かれているのも、不自然である。映画とは関係がないが…
  
  
  

夏至祭について、原作の18章では、「島の最も高い場所」に「島中の農家が集まり」、多くの出店や催しがあったと書かれている。ただ、内容は映画とは全く違っている。映画では、自分の年を考え、ペレの父でもいいかと思い始めたカルマが、農場から会場までの馬車ではずっと隣に座っていて、会場でオルセン夫人と会いたい父は、何とか逃げようと必死(1枚目の写真)。ペレが父から、好きに使っていいとお金を渡される(2枚目の写真)。てっきり、少額コインかと思っていたら、原作に半クローネ(50オーレ)銀貨とある。ジンジャーブレッドが1個1オーレとあるので、使い勝手は十分にある。映画では、希望通りRudがサーカスのような所に出ているが(3枚目の写真)、原作ではサーカスになど行かない。
  
  
  

出演が終ったRudは、ペレと無茶苦茶に踊り始めるし(1枚目の写真)、オルセン夫人と無事会えたラッセは、演奏に合わせてダンスをする(2枚目の写真)。原作では、Rudは会場にもいない。父とオルセン夫人とは仲良くくっついていたが、ダンスをしたとは書いてない。ただ、この連続した夏至祭のシーンで、厳しい農奴のような暮らしにも、年に1回は息抜きの機会が与えられることが分かり、観ている者をほっとさせる。
  
  

夏至祭の会場の外れでは、もっと深刻な事態が起きていた。姪が全裸で沼のほとりに座り、真っ白な衣服に付いた血のシミを洗い落とそうとしている(1枚目の写真)。そして、その光景を隠れて見ているのがRudの母。Rudもコンストロップの私生児だが、身分が低いので相手にもされない。母親は、この不祥事を種に金を強請ってやろうと考えている。両方の場面とも、もちろん原作には書かれていない。しかし、あったであろうことを映像化しているだけで、原作から離れているわけではない。
  
  

姪のシーネが、フルーに黙って、大急ぎで出て行く用意をしている。そこに顔を出したフルー(1枚目の写真)、「いったい、どうしたの?」のと訊く。「私、帰ります、伯母様」。「何か、問題でも?」。「友達と、ずっと会えないままでしょ。私、やっぱり都会の女なんです。だから戻ります」。「何も言わなかったじゃない」。「そうですね。もっと前に お話しすべきでした」。「とても がっかりしたわ。理解もできないし」。「コペンハーゲンが恋しくなっただけです」。「でも、私は… 夫と私は、あなたがここで幸せだと思ってたわ」。「他に何て言っていいか分かりません、伯母様。決めたんです」。「でも、こんなに突然… もっと前に話してくれれば、よかったのに」。「ごめんなさい」。「私が話してるのに、どうして目を逸らすの?」。フルーとしては、落胆この上ない。「あなたのことを、理解できたらいいのに。ここに戻って来る気はあるの? ここで一緒に暮らして、農場の後を継いでもらうつもりだったのに。だから、気が向いた時に、自由に寄って欲しいわ」。抱き合う2人(2枚目の写真)。原作の19章に漠然と書いてある内容が、分かりやすく台詞化されている。なお、この部分は東ドイツ版にはない。
  
  

そして破局。姪の乗る馬車が館の前に着く。それを見計らったように、Rudの母が中庭に侵入する。そして、「コンストロップ、出ておいで、話がある!」「金をもらいに来たんだ!」と怒鳴る。そして、荷物を持って馬車に乗ろうとした姪に近付いて行くと、「お若いシーネさん。これはまた、よろしく」と声をかける(1枚目の写真)。姪は驚いて口をきけない。「お偉くて、返事もできないのかい? 自分の方が 純潔だと思ってるのかい? それとも、海の向こうで私生児を処分するからかい… あたしが、カブの畑でしたのと違ってさ。だけど、どっちも同じ好色男じゃないか、そうだろシーネさんや?」。この衝撃の事実は、窓から見ていたフルーの耳にも入った。もちろん、馬車の下に隠れていたペレの耳にも(2枚目の写真)、そして、農場中の使用人全員の耳にも。フルーにとって、恥辱以外の何物でもない。この部分をはっきりと描いたところに、デンマーク版の凄さがある。東ドイツ版は、少し物足りない。
  
  

その夜のフルーの泣き叫ぶ声は 一際大きかった。姪を送って行った亭主が翌日の夕方帰宅する。なぜか優しげに迎えるフルー。そして、真夜中。助手が、牛小屋の窓を叩き、「起きろ、医者を呼ぶんだ!」と怒鳴る。飛び出て行った父の後を追い、小屋の外まで出てくるペレ(1枚目の写真)。6月末ということは分かるが、今度も全裸。当時の標準かもしれないが、藁のベッドに毛布1枚、暖房なしで全裸で寝るとは信じられない。原作にもそのようなコメントはない。館からは、いつものようにフルーではなく、男性の絶叫が聞こえる。使用人が続々と館へと入って行く。「奥様が、切った!」「切ったのよ! 旦那様を!」「出血で死んでしまうわ!」。ペレは何事かと一緒に入って行く。そして、彼が見たものは股間を真っ赤に染め、痛みのため苦悶の叫び声を上げ続けるコンストロップの姿。カルナが、ペレの顔を背けさせる(2・3枚目の写真)。原作には、この重要な場面について、簡単に書かれているだけで、特段の台詞もないし、ペレが主人の惨状を直接見たことを窺わせる記述は一切ない。その意味では東ドイツ版の方が原作には忠実だ。しかし、デンマーク版は、原作にない、コンストロップと姪との関係について描写し、フルーの姪との会話、Rudの母による暴露まで詳しく「創作」しているので、そのクライマックスとしてペレにグロテスクな惨状を見せたことは正しかったと思う。
  
  
  

次は、急にペレの学校のシーンに飛ぶ。そして、ペレ以外の生徒達の間を1枚の石板が回覧されている。みんながクスクス笑ってペレを見る。ペレも、とても気がかりだ(1枚目の写真)。回覧が1周したところで、ペレの前の席の生徒が立ち上がり、「これって、どういう意味ですか?」と質問して、読み上げる。「ペレは、オルセン夫人のカッコー(Pelle er madam Olsens gøgeunge)」。生徒もはっきりそう発音している。しかし、この重要な部分の各国語の字幕は、英訳すると「cuckoo in the nest」となっている。これだと意味が全然違ってくる。カッコーは他の鳥の巣に卵を産むことから「闖入者」となる。「cuckoo」だけなら、「イカレポンチ」くらいの意味か。原作では、ペレは父のことを「オルセン夫人の男妾(おとこめかけ)」と揶揄されるが、ペレに対する直接表現はない。字幕の曖昧さが良く分かる。因みに日本版のDVDでは「小鳥」と訳している。ペレは、石板を読み上げている生徒の後ろに立つと(2枚目の写真)、石板を叩き落とすが、教室内はペレに対する誹謗・中傷で大騒ぎとなる。「あの人、船乗りと結婚してたよな?」。「オルセンさんだ」。「お前の父さん、知らなかったのか?」。「スウェーデン野郎は、結婚していようが気にしないんだ。そうだろペレ?」。「ペレの父さんは、年寄りのスケベだ。スケベの子に気をつけろ」。そして、教室の外で、取っ組み合いの大喧嘩。1対7はひど過ぎる。ひとしきり殴られた後、「今に見てろ。こてんぱんに やっつけてやる」と言われて解放される。殴ったのに参加したのは漁師の子供達だろう。しかし、こうした直接的な暴力は原作のどこにも書いてない。原作では、「ペレは、父とオルセン夫人の関係が知れ渡ってから、生徒達から多くの嫌味を言われ、喧嘩をくり返してきた」と書かれているだけで、具体的な表現は皆無。作者はあまり重視していなかったのであろう。映画化に当たっては、ペレが「虐められている」というメッセージが強調され過ぎている。その夜、帰宅したペレは、牛の仕切り柱に、ナイフで帆船の絵を刻み込んでいる。黙々と、不機嫌に。父が寄ってきて、「ずっと考えてたんだが、わしらは、オルセンさんに好かれている。一緒に住もう」と言い出す。「法律に反することは分かっとる。他人の奥さんと住むわけだからな。だがな、わしは、安らぎたいんだ。下宿人ということにしたらどうかな?」。ペレは激しく首を横に振る。「わしがオルセンさんの家に行ったら、お前も来るだろ?」。また首を振る(4枚目の写真)。原作(20章)にあるのは、この次にペレが言う捨て台詞だけだ。「引っ越せよ、そしたら、僕は出て行く」。牛小屋での父の言葉の背景は、原作で、「現状では、治安判事はラッセとオルセン夫人が正式に結婚することは認めなかった。船乗りオルセンの死亡通知がない以上、ラッセに出来るのは、結婚予告を公表することくらいだった」と記述されている。また、ストンの農場での仕事が「囚人のように苦しい」とも。
  
  
  
  

そして、虐めはピークに達する。原作に全くないシーン。ペレが半ば氷結した海に追い込まれる場面だ。まず、朝、ペレは、父から、帰校の時に、オルセン夫人の家に寄って、繕い物を渡してくれと頼まれる。これは原作の22章にも書かれている。その直後の原作の文章。「丘の上から、ペレは、夜の間に氷が割れてしまったのを見た。それまで湾は1ヶ月近くもざらざらして密な氷に閉ざされ、そこでは大地と同じように安全に遊ぶことができた。氷片の海は、ペレにとって初めての様相だった。ペレは、木靴の先で注意深く入っていったが、じきに氷片の上を、体をふらふらさせずに自由に歩けるようになり、それがすごく楽しくなった」。ここを、虐めバージョンに編曲したのがデンマーク版だ。オルセン夫人への繕い物の包みを持ったペレが、海岸沿いに歩いていると、そこに長い木の棒を持った5人の生徒が現れ、ペレを威嚇する(1枚目の写真)。「どのくらいやれるか見せてみろ」。そして、全員で、氷が割れ始めた沖合いへとペレを追い詰める。ペレは仕方なく、割れた氷の上を、時々つまずきながら逃げて行き(2枚目の写真)、遠く離れた岸へと逃げる(3枚目の写真)。映画版でペレが虐められるのは、これで3度目だ。どうして漁師の子供達を意図的に悪く描き、ペレを弱く見せる必要があるのか全く分からない。確かに、一般的に言って、主人公が危機に陥った方が、何もないより、映画としては盛り上がるかもしれないが、この映画はハリウッド映画ではないはずだ。なお、原作では、同じ22章に、ペレが如何に喧嘩に明け暮れ、そして、強かったが書かれている。長いので、最後の部分だけ取り上げると、「ペレは海岸を歩きながら、なぜさっき、もう一度殴ってやらなかったかを悔やんでいた。今ではもう遅すぎた。もし、殴っていたら、クラス全員をいっぺんに負かしていたかもしれなかったのに、今では、クラスで一番強いというだけで満足しなければならなかった」とある。
  
  
  

次が、原作の22章で最も重要な部分、オルセンの帰還だ。ペレが岸に辿り着き、一息付いていると、沖合いに帆船が到着し、そこから一隻のボートが岬に近付いてくる(1枚目の写真)。ボートに立っている1人の男を見た子の1人が、「オルセンさんだ」と言う。それを聞いたペレの複雑な顔(2枚目の写真)。彼は最尾に、雪に顔をうずめる。オルセン夫人は、特に映画の中のペレにとっては困った存在だった。だから、夫が帰還し、父が同棲しなくなれば、自分に対する虐めは止む。しかし、老いた父にとってはひどい衝撃だろう。ペレの心の優しさを示す名場面だと思う。原作では、ペレが海氷の上で、他の誰もができないほど飛んだり跳ねたりして遊んだ後、防波堤に辿り着いた時、オルセンが到着する。「虐め」の部分さえなければ、原作通りの構成だ。原作には、ペレがどう思ったかは一言も触れられていない。ストン農場に直行した、とのみ書かれている。
  
  

ペレからオルセンの帰還を知らされた父の落胆は大きかった(1枚目の写真)。「ラッセにとって、それは世界が破裂したも同然だった。破片は体中を刺し貫いた。彼は、黙ったまま、ただふらふらと歩き回った。すべてが頓挫してしまった。彼はロープを掴むと、見上げながら、前に行ったり後ろに行ったりした」。マックス・フォン・シドーの名演が光る。父が何をしようとしているか悟ったペレは、急いでロープをひったくる。原作では「それで何するの?」と言うだけ。映画の方が緊迫感がある。「ラッセは、ロープを落とすと、自らの悲惨さと貧しさについて文句を言い始める。1枚づつ羽を剥ぎ取られ、羽をむしるとられた鳥のように、ぬかるみの中で踏みにじられて立ち尽くしているんだと。あるいは、老いて疲れ果てたにもかかわらず、幸せな老後へのすべての希望を奪われてしまったと」。映画でも、同じ表現が使われる。「わしは、羽を1枚ずつ盗られ、最後には丸裸にされた鶏だ。老後を過すことのできる家だけが唯一の望みだったのに。わしは、貧しくて惨めだ」。次の日、怖い思いをしたペレは、学校へ行くと言って牛小屋を出ると、学校が見える丘の上で横になって時間を過す(2枚目の写真)。この写真のペレは、いつもと違って顔が汚れていない。なお、原作でもペレは学校に行かない。虐めが怖いからでなく、恥ずかしいからだ。この2つは全く違う。「次の朝、食事を終えると、彼はいつものように出かけたが、半分まで来た所で、イバラの下で横になると、白い息を吐き、半分凍えながら、帰校になるまで過した。彼は、何日もそれをくり返した」とある。
  
  

ペレが帰ってくると、父は酔っ払って足元がおぼつかない。ペレは、そんな情けない父の姿を見て涙ぐむ(1枚目の写真)。しかし、父は、そんなのことにはお構いなしで、酒を飲み続ける(2枚目の写真)。原作では、父が酒を飲み始めるのは何日も経ってからだ。映画の方が現実感がある。ただし、その後のペレの落胆ぶりは同じ。
  
  

なぜか馬小屋の屋根裏で寒そうに横になっているペレ。天井の穴から下を覗き、「エリック」と声をかける(1枚目の写真)。エリックは、後頭部を強打して以来、口のきけない廃人と化しているので、ペレが声をかけても顔を少し傾けただけだ(2枚目の写真)。それでも、ペレは、期待を持って話し続ける。「じきに春が来るって、父さんが言ってた。春がきたら、自由になれるんだろ? そしたら、このひどいとこを出て、世界を征服できるよね」。もちろん、原作にはないシーンだ。
  
  

2つの異なる、しかし、連続したシーン。最初は、22章の続き。原作によれば休日。学校はない。だからペレは朝から牛小屋で働いている。そのペレに、父が質問する。「わしのこと、みんな何て言っとる?」。「知らないよ」。「何も、聞いてないのか?」。「笑われると分かってて、学校なんかに行くと思ってるの?」(1枚目の写真)。この言葉で、父は、オルセンの帰還が自分だけの問題ではないことに、ようやく気付く。そして、「ペレ、昨日のような醜態は二度と見せないと約束する。だから、明日から学校に行ってくれないか?」と頼む。この部分の台詞は原作と完全に同じ。そして、ペレは翌日、約束通りに学校に出かける。映画ではいきなり授業風景となるが、原作では「男の子達は、座礁した船から小麦をボートで荷揚げしている話題に熱中していた」とあり、誰もペレを笑う者はいなかった。そして、映画と異なり、さらにその数日後、「授業中に、ペレの学校行きを永久に止めさせる事態が起こった」として、授業中も一点を見つめたまま教壇に座っていた教師が、授業時間が終っても身動き一つしなかったことから、全員が教師のそばに行き、女の子の1人が手に触り、「冷たいわ!」と叫び、次いでペレが教師の肩に手を置き、ボスらしく、皆に「帰ろう」と呼びかける。映画では、もっと単純で直接的だ。ペレが教師の横に立ち、「先生、帰る時間です」と話しかけると同時に(2枚目の写真)、教師が教壇にうつ伏せに倒れ込む。
  
  

教師の死に続く、雪の中での埋葬シーン。原作にはないが、映画である以上、映像化は必要であろう。生徒の代表が棺を持って埋葬箇所まで運ぶ。5人の運び手の中にペレもいる(1枚目の写真、右端)。埋葬の準備が終わると、牧師の子が突然父の元を離れ、ペレの横まで来ると、「やあ、ペレ、父さんはどこだ? 浮気中か? 残念だったな、父様なら結婚させてやったのに… オルセン夫人の男妾として」(2枚目の写真)。ペレはこの言葉にかっとなり、牧師の子を組み伏せて顔を何度も叩く(3枚目の写真)。悲鳴を上げるだけの陰険な弱虫だ。すぐに牧師が飛んで来る。この子にしてこの親ありの男で、原因も調べず、一方的に「役所から沙汰があるからな」と怒鳴る。風上にも置けないとは、まさにこういう親子を指す。原作では、最後の脅しの代わりに、堅信礼が受けられなくなる。どちらにせよ、権威をかさにきた卑怯な行為だ。
  
  
  

鼻血を流し、泣きながら帰ってきたペレ、喧嘩の相手を聞いた父から、「最悪のことを仕出かしてくれたな」と言われる(1枚目の写真)。「牧師の息子を殴るなんて… そいつが悪いに決まっとるが。追い出されかもしれんぞ」。「だって、あいつ、父さんのこと、『牧師だったら、オルセン夫人の男妾として結婚させてやった』なんて、言ったんだよ」。「何だと? そんなことを? ここにいたら、腸わたを えぐリ出してやる、クソチビめ! 落とし前はつけただろうな?」。「あんまり。豚みたいにキーキーわめくから、すぐに牧師が来ちゃった」。「そうか… だが、まずいな。謝る気はないよな? いやいや、そんなことしちゃ いかん」。そう言った後、父はどうしたらいいか、必死に考える。原作(22章の最後)も、大筋では同じ。「堅信礼が受けられなくなる」の代わりに、「追い出される」になっているだけ。因みに、東ドイツ版は原作と同じ堅信礼を用いている。デンマーク版がなぜわざわざ官憲の介入に変えたのかは不明。逆に、変えたために、ペレの助手昇格と辞退という中途半端なエピソードが挿入されることを考えると、マイナスとしか言いようがない。
  
  

ペレの危機に対する父の解決策は、農場主への直訴・嘆願だった。原作23章の冒頭、日曜の朝、父とペレは館の階段を上がり、廊下で木靴を脱ぎ、ドアの前で ペレに鼻を拭かせ(ハンカチがないので、上着の袖で拭く)、思い切ってノックする。返事がない。「誰もいないな」と引き返そうとする父。ペレは、「入ろうよ。1日中、ここで待ってられない」と反論。「じゃあ、お前が先に入れ、行儀よく振舞えるならな」。ペレは何回も入っているので、躊躇することなくさっとドアを開け、中に入る。後に続く父。ここまでは原作通り。原作なら、ここで、ソフェに横になっているコンストロップが「誰だ?」と声をかけるのだが、映画では、ラッセ意味不明の言い訳を、コンストロップが無視する。その時、フルーが部屋に入って来て、「あなたたちなの?」「お座りなさい」と優しく声をかけてくれる。そして、夫には、「なぜ、座るよう言わなかったの」だけ。「2人揃ってどうしたの? お金が入用なの?」。「いいえ、この子のことで。この子が追放されそうなんです」。「追放される? 一体何を仕出かしたの?」。ペレ:「牧師の子を殴りました」。「なぜそんなことを?」。「父さんの悪口を言ったから」。「どんな?」。原作では、ここでペレが「言えません」と断り、フルーは「それでは、何もしてあげられませんよ」と言うが、映画では そこを飛ばし、ラッセが「わしが 話します。その子は、わしのことを『オルセン夫人の男妾』と言ったんです」と話す。この言葉を聞いて、コンストロップが笑い始める。「誰もが未亡人だと思っていたので、婚約したんですが、突然 旦那が戻って来まして… だから、そんなあだ名が付いたんだと思います」。コンストロップの笑い声が一際高くなる。フルー:「だから、ペレが怒ったのね?」。「ええ、残念ですが。貧しい駆け出しは、つつかれるしかないんです」。「いくら貧しくても、鳥だって巣は守らないとね」。そして、「手は尽くしましょう。心配するのはおやめなさい」と言ってもらえる。この場面、若干原作より台詞は少ないが、「堅信礼」を除けばほぼ原作を踏襲している。
  
  
  

映画の最終局面に入り、この映画で一番奇妙で、不出来な場面が挿入される。フルーが、笑顔になると、「ところで、主人と話し合ったのだけど、今の助手がこの春 辞めるから、ペレを次の管理人助手にと考えてるの」と打ち明ける。次の場面では、地下の食堂でペレが仕立屋に助手の制服の仮縫いをしてもらっている。父は、「お前が助手になればいいのに、とわしが願っていたのを、知ってたか?」と楽しそうに話しかける。カルナが助手専用の黒い長靴を持って来て、「これ、前の助手のだけど、紙を詰めれば…」と言って渡す。「履いてみろ」と父に言われテーブルの上で履くペレ。カルナ:「グリースを塗れば新品同様よ」。そして、父は、ペレに助手らしい姿勢を教える。真っ直ぐに立ち、あごを引き、冷たい目で見ること(1枚目の写真)。「お前は、みんなに尊敬されんといかん。それは、姿勢と視線にかかっとる」「辛い仕事とはお別れだ。命令するだけだ…」。しかし、この時、中庭では別の深刻な事態が進んでいた。管理人によって、嫌がるエリックが馬小屋から追い出され、持ち物と一緒に馬車に乗せられている。その騒ぎを聞いたペレは、何事かと外に飛び出して行き、「エリック!」と大声で叫ぶ。「待って、エリック、置いてかないで!」(2枚目の写真)。無情にもエリックが連れ去られていなくなると、アメリカへ行ける夢のついえたペレは意気消沈し、あるいは、ストン農場そのものに愛想が付き、食堂に戻ると着ていた服を畳んで、「なりたくない」と返し、「ここを出なくちゃ、父さん」と決意を語る。この場面が不自然なのは、①ペレが助手には若すぎる、②急に前の助手が辞めるのは変、③なぜ、仮縫いの最中にエリック放逐事件が起きるのか? ④廃人化したエリックに、ペレがなぜ拘るのか? ⑤そして、そもそも、フルーが真の「農場主」となり、ペレを助手にするほど農場が変革したのなら、なぜ前の圧制の犠牲者たるエリックを追放するのか? ⑥ペレが、フルーの好意を簡単に無視するのも違和感がある。原作では、ペレの堅信礼の儀式用に、フルーが一式、服を新調してやるエピソードが、この部分に対応する。23章では、「ある朝、仕立屋が、たくさんのはさみ、巻き尺、プレス式アイロンなどを抱えてやって来た。ペレは召使部屋に降りて行き、商品の動物のように体中を測定された」の記述から始まる。ここから、内容は別の方向に進む。「ストン農場では、何か新しいことが起きていた。コンストロップが農場主になって以来、靴屋や仕立屋が召使部屋に来たことは絶えてなかった。このことは、古き良き伝統が復活した兆しで、ストン農場も、これで他の農場と肩を並べられるのだ。使用人たちはそれを喜んだ」。こうした方向性は、映画では見えない。また、こうも書かれている。「ペレは、2着の服を用意された。1着はRudの堅信礼用だった。これは、恐らく農場がRudと彼の母親に与える最後の恩恵となるであろう」。これは、Rudがサーカスになど行かなかったことをはっきり示している。さらにペレの堅信礼の日については、「この重大な日、ペレとラッセのために1頭立ての馬車が用意された」「ペレの新調の綾織の服は、動くたびにサワサワと音がした。足には、コンストロップ本人が履いていた上等のコングレスブーツがはまっていたが、大き過ぎたので、底革に加え、爪先には紙が詰めてあった。そして、頭には、ペレ自身は店で選んだ青い帽子を被っていた」などと記されている。いよいよ式が始まる直前、父は「大きな声ではっきりとな」と注意して会衆席に着き、いよいよ堅信礼が始まる。「ペレは、はっきりと答え、その声は広々とした教会に響いた。牧師は、決して復讐などはせず、ペレを他の子と全く同じように扱った」。そして、式が最も厳粛な部分に来ると、なぜかラッセはカルナのことを想う。そして、これまでカルナに対して取ってきた自分の態度を反省する。式が終ると、父はペレに「神の祝福がありますように」と言い、最後に、「これでお前も男になった」と励ます。その日の午後は、2人にとってお休みで、ペレが真っ先にしたことは、館に出向き、服のお礼を述べ、お祝いの言葉を頂戴したこと。そして、「フルー・コンストロップは彼に赤すぐりのワインとケーキを与え、農場主は2クローネ銀貨を与えた」。こうした自然な流れに対し、映画の歪曲が如何に不自然かが分かる。
  
  

夜、ペレと父は、こっそりと荷造りをする。壁に付いた小さなランプだけが頼りだ(1枚目の写真)。その時、牛小屋のドアがバタンと閉まる音が聞こえる。慌ててランプを吹き消すペレ。しかし、入って来たのは管理人ではなく、カルナだった。「来られてよかった。見つかるかと思ったのよ」と2人を安心させ、さらに「このキルトあげるわ。これがあれば夜も暖かいわよ、世界中のどこへ行っても」と言ってくれる。ペレは慣れ親しんだ牝牛たちにさよならを言いに行くが、父はカルナの言葉で、もともと消極的だった決心が完全にゆらぐ。そして、荷物作りをやめて壁を向いてしまう。お別れを言い終えて戻って来たペレは、そんな父を見て、「父さん… どうしたの?」と訊く。父の返事は、「わしらは、ここに残れないのか?」というもの。首を振るペレ。すると父は、「ペレお前1人で逃げてくれ」と頼む(2枚目の写真)。ダメ人間の力の限界と老いの寂しさをひしひしと感じさせる素晴らしい演技だ。「わしは老いて、行けそうにない。旅は無理だ。疲れ果てた。年を取り過ぎた。分かってくれるな?」。ペレも受諾するしかない(3枚目の写真)。父は、自分が行かないでいいと分かると、急に口数が多くなる。「荷造りしよう、ペレ。わしのシャツを2枚やる。これで、きれいなシャツが持てる。2週間以上 同じシャツを着るんじゃないぞ。でないと、悪評を買う。穴が開く前に 靴下は変えろ。このブーツも 持ってけ。少し すり切れとるがな。聖書もあるぞ。母さんが、お前に持たせたがっていた」。原作でも、もちろんペレは1人旅立つ。そうでなければ、征服者ペレにはなれない。ただ、出立の状況は全く違っている。第1部最後の24章。「彼は、『さようなら。そして、いろいろありがとう』と農場の全員に声をかけた。エリックにさえも。そして、朝食にベーコンをたっぷり食べた」。牛たちに別れを告げるところは同じだが、農場の全員ということは、映画のように逃げるのではなく、堂々とした旅立ちだ。さらに、映画と違いエリックは農場にいる。この大きな変更は、ペレの逃避行を、自由への決意に満ちた飛翔と見せるための演出であろう。確かに、原作通りの東ドイツ版には出発に当たっての切迫感がどこにもない。
  
  
  

映画の最後。父は、一面の雪の中、農場からかなり離れた所までペレを送って行く。そこで2人は立ち止まり、父は、「次に会う時は、お前は家庭を持ってるだろうな」と餞の言葉を贈る。それに対し、ペレは、父の今後を考え、「カルナに よろしくと伝えて」と言う(1枚目の写真)。そして、腕を差し出し、「さよなら、ありがとう」と握手をする。長い握手の後、父はペレに接吻し、ペレは雪を踏みしめながら丘を上っていく。寂しいテーマ曲が流れ、ペレが手を振る(3枚目の写真)。極寒の冬、2回目の冬なので、ペレはまだ13歳〔11歳で来島したとして〕。1人で逃げ出していったいこの先どうなるのかと不安を感じさせる終幕だ。原作では、旅立ちは4月末。春だ。年齢は4度目の冬を終え、誕生日の前なので12歳〔8歳で来島〕だが、逃亡でない。着ている服は、堅信礼用に作ってもらった青い一張羅。まさに、青春への期待に燃えた旅立ちだ(→東ドイツ版)。農場の外で父と交わされる言葉は2つだけ。「神も言っておられる。成せば成ると」。「さよなら、父さん、いろいろありがとう」。映画の方が感動的かもしれないが、ペレという1人の少年にとってみれば、原作の方が幸せな旅立ちであろう。
  
  
  

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